You are not you. 〜 映画「サヨナラの代わりに」を見てきました
この春に公開された「博士と彼女のセオリー」に続き、先日公開されたALS映画「サヨナラの代わりに」を見てきました。
公式サイトにあるストーリーを引用します。
ケイト(ヒラリー・スワンク)が初めて身体に異変を感じたのは、誕生日パーティでピアノを弾いた時だった。やがて難病ALSと診断され、一年半後には歩行器と車椅子に頼り、一人では着替えることすらできなくなってしまう。
毎朝メイクをしてくれるエヴァンが出勤した後は、介助人が通って来る日々。ある時、ケイトはエヴァンに無断で介助人をクビにし、大学生のベック(エミー・ロッサム)を面接する。介助の素人どころか普通の家事さえもできないベックをエヴァンはその場で断ろうとするが、ケイトは患者ではなく友人として話を聞いてほしいとベックを採用する。
(ざっくり略)
やがてベックが住み込みで介助するようになり、彼女の自由な言動がケイトの心を解放していく。積極的に外に出掛け、新しく刺激的な日々の中で絆を深めていく二人。残された時間の中で、彼女たちが見つけた、生きる上で本当に大切なこととは―。
ALS映画と書きましたが、人生で大事なことをALSを使って描き出した映画だなと思ったので、その辺りを書いてみます。
なお、一部ネタバレがあります。
You are not you. – 周囲から見える姿と自分がありたい姿のミスマッチ
この映画の原題は “You are not you.” です。ぱっと見、意味がわかりませんが、映画を見ると結構深いテーマに取り組んでいることがわかります。
ケイトは仕事も家庭も充実した、アメリカ的なマッチョで魅力的な女性で、そういう価値観を持つ友人に囲まれていました。しかしALSの進行につれて、そうした友人との関係が崩れ、外見にとらわれない付き合いをしてくれるベックに心を開きながら終末期を迎える設定です。
一方のベックは、なにをやってもうまくいかないとなげやりな大学生で、異性関係もだらしないものでした。しかし、音楽への情熱と才能を秘めていて、ケイトの終末期をともに過ごすことで、才能を発揮する勇気を得るという設定です。
ALSは物語の小道具であって、ありたい自分と周囲に見えている自分とのギャップをどう乗り越えるのか、という物語なんだと思いました。
邦題はALSに焦点を充てたコピーですが、やはり原題の “You are not you." がこの映画の本質を表しているように思えます。You which look like are not you which want to be looked. といったところでしょうか。
見えている姿のなりたち
さて、「ありたい自分」が周囲に見えている自分と違うのはなぜでしょうか? 上に書いたケイトとベックの例から、二つのパタンがありそうです。
ひとつは、自分をよく見せたいよく思われたいという気持ちが強すぎて、本来の自分とは違う自分を演じてしまう場合です。
もうひとつは、自分なんか大したことないと思い込み、本来備わっている才能やの力を発揮できない場合です。
いずれも、社会的に良いとされるレールに過度に従ったり、誰かの期待にそって褒められることだけがモチベーションになっている、ことから生まれているのではないでしょうか。
その結果として、自分が存在していないことになってしまう。というより、他人の意見で本当の自分が覆い隠されてしまっているのでしょう。
この本当の自分に気づく、というのは様々な手法が喧伝されていますが、きっと誰もが人生の何処かで気づくのだと思います。
人は外見を見て判断する
とはいえ、本当の自分は自分ですら隠蔽してしまっているくらいですから、他人に見えるはずがありません。
そうなると、わかりやすい外見で判断されることになってしまいます。周囲の人達が外見にとらわれる中で、自分が自分本来の姿であろうとするには、強い意志が必要になります。
さらに、周囲が自分本来の姿を見ようとして、少なくとも理解してくれれば、少しは自分らしくいられることになります。
ALS患者として思うこと
映画はALS患者が主人公なので、感情移入しながら見ていました。
病状が進行すると体のいろんな機能が衰えていきますが、それでもできるだけ以前と同じように過ごしたい。でもできなくなり、受け入れていかなければならないこと。
以前のように振る舞えず、また会話や食事、排泄等の日常生活ができなくなっていくことで、周囲も気を使って接し方が変わっていくこと。
振る舞いは変わっても中身は変わっていないと思い、またそれを尊重してくれる友人に対しても、相手を煩わせることへの葛藤を感じてしまうこと。
などなど、うまく描写されていたと思います。さすがオスカー女優ですね。
映画のラストシーンについて
主人公のケイトは、呼吸が難しくなっても呼吸器を拒否して、自宅で自然に死ぬことを選びます。
日本では人工呼吸器を着けて延命する患者が3割を超えるようになりましたが、欧米ではもっと低いそうです。
この映画の結末は、映画としてのシナリオの都合もあるでしょうが、そうしたお国柄を反映したものになっています。
おわりに
映画「サヨナラの代わりに」は、ALSを題材にした映画ですが、実は「本来の自分に気づき、自分らしさを大切にする」ことをメッセージとしているのだと思いました。
ALSになってしまったことの意味があるとすれば、長い間囚われていた他人の人生から、自分を開放することにあるのかもしれません。
ALS関係者だけでなく、自分らしくありたいと奮闘している人へもおすすめの佳作です。