【読書】松下村塾:友人として共に学びませんか

日常生活, 読書メモ

NHK大河ドラマは、子供の頃から大体見てきました。今年の「花燃ゆ」は吉田松陰の妹、文のものがたりです。原作はない書きおろし脚本ですが、イケメン俳優をこれでもかと配役しているところが特徴でしょうか。

2/22放送の第8回は、吉田寅次郎(松蔭)が久坂玄瑞と丁々発止の手紙のやり取りを経て、塾に迎える回でした。

久坂玄瑞は、禁門の変(蛤御門の変)で自害するのですが、松下村塾では高杉晋作と並び称される俊才だったそうです。

そんな久坂玄瑞を、吉田松陰が口説くセリフが次のようなものです。

僕は教えることはできませんが、共に学びませんか、友人として。友人と学ぶに、身分や立場などどうでもええこと。

これって、当時の社会構造から見ると画期的なことだと思うし、現代にあってもなかなか難しいことではないでしょうか。

松下村塾ってどんな塾?

実は吉田松陰や松下村塾については、坂本龍馬の話から見えることしか知らず、長州といえば高杉晋作の奇兵隊の方が印象が強かったのです。初代総理大臣の伊藤博文、元帥陸軍大将の山県有朋も、奇兵隊の隊士である前に松下村塾に学んでいたのは有名ですね。

長州の萩という一地方から、松蔭が講義をしたと言われる実質一年余の間に、およそ100名の幕末の志士を数多く排出した環境には、なにか特徴があるはずです。

そんなわけで、古川薫、著「松下村塾」という本を読んでみたので、塾の成り立ちやあり方で印象的な点を抜粋します。

入塾

来る者は拒まず、去る者は追わずという松下村塾には、士庶の別を問わず入塾を許した。藩士・足軽・中間・僧侶・商人と身分はいろいろで、時には町の無頼少年もやってきた。年齢も十二歳から四十歳を超えた者までいたが、やはり十代、二十代が中心だった。

友情

松陰はそうした身分差を一切無視した。学問をする上に、身分意識など余計なものだとし、人間は平等であるという松陰の信念は、その言動の随所にあらわれている。

 

松陰はそれをことさら言葉に出して教えはしなかったが、身分のへだてなく人に接触する現実の行動で理解させたのである。封建社会の人間関係は、すべて縦につながっている。松下村塾では、塾生の身分、年齢の別にこだわらず横に並べ替えた。松陰は塾生を「諸生」と言い、「諸友」と呼んだ。

学習の方法

礼法や規則によって学習の効果があがるものではなく、師弟の人格的接触によって互いの心が融合するとき、意義・道理が理解できるようになる。

 

師弟や塾生同士がよく発言して語りあう必要がある。

 

討論し切磋琢磨することを求めている。師弟そして門人たちも横に結び、松下村塾を坩堝の中で融けあうような活気あふれる教学の場とするためには、もっと積極的な声が上がらなければならない。

評価

学習態度の評定を三段階、さらに六つに分けて、これを三等六科とし、上等とは「進徳・専心」、中等は「修業・励精」、下等が「怠惰・放縦」とした。評価の基準を知識の量におかず、学問にむかう姿勢にしぼっていることをあらわしている。

 

松下村塾には、テストの成績を争って人の上に立とうとする競争原理はなかったのである。

ざっくりまとめると

松下村塾の特徴は、

  • 来る者は拒まず
  • 人はみな平等
  • よく語り合う
  • 学問に向かう姿勢だけを評価

ということになりますね。

松蔭の尊王攘夷の思想がこの集団のビジョンでしたが、そのビジョンのもとで一人ひとりが自分がなすべきことを考えぬいた、ということが、のちの行動につながったと考えて良さそうです。

そう考えると、松蔭が常々口にしたという次の言葉が松下村塾の特徴を一言で言い表しているのだと思います。

学者になつてはいかぬ、人は実行が第一である。

ところで、松蔭は過激な行動を取り続け、その門下生も藩を動かし下級武士が栄達したことから、心良く思わない人もたくさんいたようです。この辺りも、いずれ調べて書きたいと思います。

 

credit: dreamcat115 via FindCC

 

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