ALS療養の経緯(家族編)

講演スライド

ALSの進行と療養の経緯を、家族の様子を交えて紹介します。

体の不調を感じ始めたのは2013年のはじめでしたが、告知は2014年の9月末でした。告知当時、息子たちは高校3年生と中学2年生でした。

すぐに歩行困難になり車椅子が必要になりまして、仕事で外出するときは妻に介助してもらっていました。このために、妻はパートの仕事をやめないとなりませんでした。

2015年度のはじめには、構音障害が進み会話が難しくなりました。年末には、両手が上がらなくなり、食事、着替、トイレに介助が必要になりました。

この頃は進行が止まらずに、絶望感しかありませんでした。

長男は大学に入り、最初の頃はのびのびやっていましたが、すこしずつわたしの衰える姿を気にしだしていました。次男は中3になり、サッカーの強い高校に行きたいと言い出しましたが、勉強もきちんとやる子だったので、今の学力では合格できないところならいいよ、と言い渡しました。結局その条件をクリアして、行きたかった高校に進学しました。

それでも、活動的な先輩患者と出会ううちに、どうすれば生ききることができるかを理解するようになりました。このころ、2016年度に入るころには飲み込みが悪くなり、食事に1時間以上かかるようになったので、胃瘻を作りました。

この頃から腕が動かなくて、トイレに度々失敗するようになり、妻は私から目が離せないようになりました。夏には介護ベッドを入れて、トイレもベッド上で尿瓶を使うようになりました。このころから妻が疲れ果てるようになり、トイレを学校から帰った長男に頼むことが増えました。これで、私がヘルパーを入れる決心をします。

一方、車椅子の恥ずかしさに慣れ、また栄養が安定してすこし元気になった私は、外出したくなります。外出は妻一人の介助だと大変で、大学生になった長男に介助を頼むことが増えてしまい、結局彼は留年してしまいます。後で聞いたら、もうすぐわたしが死ぬんじゃないかと、気持ちの整理がつかなかったようでした。

この頃が家庭として一番苦しい時期でした。

とはいえ、まだ死ぬイメージが持てずにいたので、2017年の春に生ききるために誤嚥防止と気管切開手術を受けました。当時は呼吸機能はまだなんとかなっていましたが、食事中の誤嚥がひどく、その対処のために手術を決断しました。呼吸が浅くなる夜間に呼吸器をつけるために気管カニューレをつけたこともあり、痰の吸引が課題になりました。

妻の負担を減らそうとして、訪問看護が毎日入ってくれるようになり、長時間の見守りが可能な重度訪問介護ヘルパーもお願いするようになりました。しかし、妻の介護負担は高いままでした。

一方、私のコミュニケーションは難しくなるばかりでした。手術の少し前には指が動かなくなり、パソコンもスマホも使えなくなりましたが、視線入力パソコンの導入に成功します。3ヶ月ほどで操作に習熟して、ほぼ自由にパソコンが使えるようになりました。これが私のコミュニケーション能力を復活させてくれます。

呼吸が楽になり、酸素が脳に行くようになった入院中のある日、「これからは、やりたいことはみんなできますよ」という神の啓示のようなものが降りてきました。

やりたいことの一つが講演活動でした。動けない、喋れない私がプレゼンするために、吉村隆樹さんと一緒にハーティープレゼンターというソフトウェアを作り、講演活動を開始します。そこから、気持ちはどんどん元気になっていきました。

この2年間は、妻も長男も苦しい時間でしたが、すこしずつ、ヘルパーのいる生活に馴染んでいきました。

2018年度に入ると、わたしはますます社会参加の機会を求めるようになりました。毎日きちんとリハビリをすることと、社会参加の機会が増えたことにより、進行がとてもゆっくりになっていきました。

私はパソコンを駆使して、日常生活を改善していきました。もともとコンピューターが専門でしたから、色々なアイデアが浮かびますが、専門知識のない人に指示するのは大変でした。大学で専門教育を受けていた長男が、だんだん私の要求を理解できるようになっていったのは、頼もしかったですね。

2019年度になると、ヘルパーのおかけで家族に頼らないで外出することも増えていきました。元気にしていたら黒岩知事の目に止まり、神奈川県の共生社会アドバイザー職につくことになりました。ALS発症の前には、50代は地域貢献の仕事がしたいと仕込んでいたのですが、そのとおりになりました。

さて、長男は次男に介護の負担が行かないための、防波堤の役目を果たしてくれました。すでに社会人3年目です。次男は、高校3年間を心置きなくサッカー部に打ち込むことができました。大学でも体育会でサッカーをしたいと都内の大学に進学して、もう4年生です。

昨年のはじめに、療養がしやすい環境に引っ越すことを決めて、このタイミングで息子二人は家を出ていきました。

ヘルパーほかのみなさんのお陰で、ようやく子離れができたわけです。

以上の内容は、2021年7月に開催された、第26回日本難病看護学会学術集会の交流集会2「難病の親を持つ子どもたち」にて、東京都医学総合研究所の中山優季先生のコーディネートで、橋本佳代子さんと対談した内容をもとにしています。

詳細は下記に論文化されています。

  • 難病と在宅ケア 2022年2月号 Vol.27 No.11
    特集2・ALS等の看護支援、第4部 難病の親を持つ子供たち