ALSと共に生きた10年:挑戦の軌跡

ALS生活

生来のズボラな性格で、もはや正確な日時は忘れてしまいましたが、2014年の9月末日にALSの告知を受けました。急速に身体が動かなくなり始めていて、妻も同席ということで、告知されるのだという予感はありました。ある程度わかっていたとはいえ、いざ告知されてみると、こころは落ち着かずに動揺していました。妻は「原因がはっきりして良かったんじゃない」と珍しく気丈でした。

とりあえず誰かに言いたくなり、親友二人に病院に来てくれと連絡して来てもらい、「オレの病気は筋萎縮性側索硬化症なんだってさ」と話しました。言われた方も困っただろうに、淡々と世間話をして帰ってくれました。

それから10年、私はいまだに生き延びています。生きる決意を固めるまでには、いろいろな出会いや経験がありました。ALSという病気は進行が早いことで知られていますが、先輩患者や支援者たちとの交流が、自分も長く生きようという強い意志を持つきっかけになりました。特に、リハビリに活路を見出したことが、進行を抑える鍵になっていると感じています。訪問看護師やリハビリの専門家たちのおかげで、継続的なケアを受けながら身体機能をできるだけ保つ努力をしてきました。

2017年5月には誤嚥防止のために手術を決断し、気管切開も計画的に行いました。そのおかげで、今でも口から食事を楽しむことができています。さらに、同年にはLICトレーナーを使った呼吸リハビリを、おそらく日本で最初に在宅で導入することができ、いまでも呼吸機能を維持し続けています。

また両手指が動かなくなった2017年4月に、視線入力パソコンの導入に成功したことで、パソコンの自由な利用が可能になり、社会に再び参加する道が開かれました。この視線入力を活用し、2018年1月には重度障害者向けのプレゼンソフト「HeartyPresenter」を開発し、それ以降、毎年10件以上の講演活動を行っています。

告知から程なくして、日本ALS協会神奈川県支部に参加して地域社会にも積極的に関わり、2017年11月に「川崎つながろ会」を立ち上げ、神経難病コミュニティとして地域に貢献してきました。さらに元気に活動していたことが黒岩知事の目に留まり、2019年11月には神奈川県の共生社会アドバイザーを委嘱されることになりました。

その後、2020年4月には重度訪問介護事業所を設立し、自薦ヘルパーを増やし、学生ヘルパーが活躍する場も提供できました。2021年暮れには、外出がしやすいマンションの1階に引っ越し、ほとんど電車で自由に出かけられるようになりました。また、介護保険を利用して世界最高峰の電動車いす「ペルモビールF5」を導入し、外出の自由度がさらに向上しました。

そして、2023年12月にはスイスで開催されたALS国際シンポジウムに現地参加し、2件のポスター発表を行うことができました。これは、告知直後から抱いていた「呼吸器をつけても、いつかは海外に」という夢を実現するものでした。

全身がほとんど動かない重度障害者ではありますが、振り返れば、これほど多くのことを成し遂げ、経験することができたことに感謝しています。

生きていて、本当に良かったと思います。

 

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Posted by gen