佐賀の玄三さんに会いに行きました
ALS界の重鎮のお一人で大先輩の患者さんである、佐賀の 中野 玄三 さんに先日(2016.11.3)お会いしてきました。朝一番の飛行機で佐賀に向かい、最終便で帰ってきました。速報はFacebookで紹介しましたが、訪問前後の話も加筆して書いておきます。
訪問概要
玄三さんが告知された後に、完全バリアフリーを目指して設計されたご自宅は、広々とした玄三さんのお部屋をはじめ快適この上ない環境でした。
玄三さんと、奥様とヘルパーのみなさんとの連携が素晴らしく、笑いの絶えないとてもステキな環境でした。
玄三さんが考え抜いて試行錯誤されたであろう、たくさんの工夫を教えていただきました。その根幹には、自分の人生は自分で責任を持つ強い意志と、それを全力でサポートする奥さまとヘルパーの存在があるのだと思いました。
昼食もご馳走になりましたが、刻み食がとてもおいしかった。早速試してみます。
ご一緒に過ごさせていただいた数時間、笑いが絶えませんでした。ぼくも、いつまでも笑って過ごしたい。表情筋を維持して、朗らかなチームを作っていきたいと強く思いました。
なぜ玄三さんか
これは体の不調が一向に治らず、近所の病院で検査を開始した2013.11頃に遡ります。何度か通院して検査を受けたのですが、医師からは大学病院を勧められ、その際にはじめてALSという単語が出てきました。
ALSにほとんど知識がなく、ホーキング博士の病気で、全身が麻痺して呼吸ができなくなって亡くなる病気、ということぐらいしか知りませんでした
それでも、とりあえずネット上を調べまくってみると、多くの方が人工呼吸器を選択せずに亡くなっていることを知りました。一方で、呼吸器をつけるだけじゃなく社会参加もしている患者さんがいることも知りました。そのお一人が玄三さんでした。
それでもこの段階では人ごとで、どこかに治療方法があるはずだとたかをくくっていて、玄三さんのブログのことも忘れていきました。
それでも2014.10にALSとの告知を受けて、いよいよ病気と向かい合わなければならなくなり、まず自分はあと何年生きられるのか、調べました。
そんなときに思い出したのが、玄三さんのブログ「ALSをしなやかに生きる
」でした。
多分すべて読みました。
当時の葛藤は、おもに
- 家族に重い負担を強いてまで生きる意味があるのか?
- 生きていくとして仕事などの社会参加ができるのか?
の二つでしたが、玄三さんはクリアしているようでした。
そういう人がいるなら、自分もできるはずだ!と心に火がつきました。
ALS患者になったことをブログで公開したのは、病気と闘う決心を表明するためでしたが、あわせて玄三さんのブログを追いかけようと思ったからなんです。
なぜこのタイミングか
この夏ごろから、血中酸素濃度が93-4を示すようになり、気管切開と人工呼吸器の装着を真剣に考え始めました。合理的に考えれば答えは一つですが、やっぱり怖かった。
だから、だれかに勇気をもらいたかった。
上述の経緯から、やはり玄三さんに会いに行こうと自然に思えました。調べたら日帰りもできそうなので、思い切って連絡したところ快諾してもらえて、今回のご訪問となりました。
玄三さん、奥さま、ヘルパーのみなさん、どうもありがとうございました。