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ALS患者高野元の日常と思考と回想

広島に行ってきました(3) 〜 大和ミュージアム

      2015/08/26

7/13-15の2泊3日の日程で広島に行ってきました。

今回はその3日目、大和ミュージアムです。長くなったので目次をつけておきます。

早めに起きたものの、朝食をゆっくり取りすぎて、9時過ぎにホテルをチェックアウトし、車で40分ほどで呉の大和ミュージアムへ到着しました。

小学生の頃は軍艦マニアで、ウォーターライン・シリーズはじめ大和自体も幾つか作った事があります。そんなわけで、帝国海軍の主要艦艇や太平洋戦争の海戦はなんとなく頭に入っていたりします。

入館のタイミングで、ボランティアのおじさんによるツアーが始まるところだったので、参加して展示を見ていきました。

1/10サイズの大和の模型は圧巻

ここの展示物の目玉は、なんといっても1/10サイズの大和模型です。模型なのに全長26mで、3億円かかったそうです。

模型であっても十分な迫力です。印象的な部分を見てみましょう。

46cm主砲

主砲は、世界最大の46cm 3連砲です。砲弾の最大飛距離は、42Kmにもなるそうです。42Kmも飛んで、200m程度の標的に命中するわけはありませんね。。。

日露戦争当時の艦隊決戦思想、大艦巨砲主義の最終形ですが、既に海戦は航空戦の時代に入っており、無用の長物となってしまっていました。

艦橋

艦橋の造形は微妙なバランス感を感じて、以前から素直に美しいと感じています。

艦橋上部には光学式測距儀とレーダーを備えていました。光学測距儀の性能は優れていましたが、天候の影響を受けます。当時の電波技術はアメリカに大きく後れを取っていて、レーダーの性能はお粗末なものだったそうです。

対空砲座

艦橋〜煙突部の両舷には、ぎっしり対空砲座が設置されていますが、完成当初はこの位置に副砲が配置されており、艦隊戦を意識した艤装でした。

戦局が進むにつれて艤装は対空砲火重視となり、沖縄特攻時にはこのように舷側に高角砲が密集する形になりました。

後方から

世界一の大型戦艦でありながら、4基のスクリューと2段の舵で、高速戦艦なみの速度と旋回性能を持っていたそうです。

今に生きる技術開発

それでも、歴史的な巨大製造物が残した多くの技術が、戦後の高度成長のあちこちで使われたそうです。公式展示図録p46-47によれば、次のような技術が継承されているそうです。

  • ブロック工法・先行艤装 → 造船だけでなくビル建設の工程短縮
  • 科学的工数管理 → 造船の工程効率化による低コスト化
  • 光学測距儀 → カメラほか精密光学機器への応用
  • 主砲製造 → 当時の工作機械が、大型船のクランク軸製造や、原子炉圧力容器の検査などに利用
  • 製鋼技術 → 対弾効力が高く製造期間が半分という特殊装甲板の技術が、特殊鋼の製造に応用
  • 球状艦首 → 高速時の造波抵抗を減らす形状で、現在は大型タンカーほかで利用
  • 各種電気技術 → 8基の発電機、管内への配電、冷暖房や冷蔵庫など、弱電・強電に応用

関わった技術者は多少報われたところはあったのかもしれません。

出撃はたった4回

大和は世界最大かつ最大火力を持つ戦艦でしたが、建造には当時の国家予算の3%をつぎ込んだそうです。大したことはないと思うかもしれませんが、必要な重油や砲弾などの運用費が膨大になることが容易に想像できます。なんだか、新国立競技場を巡る議論と似てますね。。

日米開戦直後の昭和16年12月16日に竣工して実戦配備され連合艦隊旗艦になりますが、出撃の機会はたった4回しかありませんでした。

昭和17年6月4〜6日:ミッドウェー海戦

先行した機動部隊が主力空母4隻を失う大敗で、大和はトラック島から戦場に向かう前に作戦が中止となります。戦場で合流するというのは、この時点でも航空機で叩いて戦闘艦でとどめを刺すという思想だったことがわかります。時代の変化が読めなかったわけですね。

昭和19年6月19〜20日: マリアナ沖海戦

太平洋戦争における最後の機動部隊同士の艦隊決戦で、ようやく戦闘艦隊が機動部隊の前衛となって対空防御を担いました。もとより兵力の差がある作戦で、主力空母の多くを失い連合艦隊としての機能を失います。

昭和19年10月24〜26日: レイテ沖海戦

アメリカ軍のフィリピン上陸を阻止しようとする「捷一号作戦」における海戦。燃料の不足による訓練不足や、司令部と前線の連絡不備など、作戦計画の前提が崩れる中で決行され、戦艦武蔵や残存空母の殆どを失い、

昭和20年4月7日: 沖縄特攻

アメリカ軍の沖縄上陸を撹乱し、少しでも本土侵攻を遅らせるべく「菊水作戦」が立案される。乏しい兵器・人員で対抗するために航空機を主力とした特攻作戦だが、そのなかで残存艦船で水上特攻をかけるというもの。

計画上は行きの燃料しか搭載しない無謀なもので、もはや作戦の形態をとっておらず、部隊の全艦長が反対したそうです。しかし命令に従うのが軍人、大和乗組員の92%となる3000名強、艦隊全体で3700名強の兵士が船とともに没したそうです。

乗組員の遺品

大和ミュージアムは、特攻で散った乗組員の記録を残す場所という意味合いも持っており、乗組員の遺品や遺書の展示もありました。数年前に訪れた鹿児島の鹿屋での陸軍特攻隊の遺書と同様、家族への感謝と今後の健康、そして将来の国を託す思いが綴られているものが多く、胸に迫るものがありました。

司令部の命令は「片道の燃料のみを搭載する」というものでしたが、現場の補給担当士官が勝手にかき集められるだけの燃料を調達して搭載させたそうです。また、艦隊司令長官だった伊藤整一中将は、大和の沈没に際して作戦の中止を決断し、残存艦に行動の自由を与えています(本人は大和とともに水没)。

これによって、残存駆逐艦が海に浮かぶ生存者を救出しつつ、佐世保に帰投できたことが僅かな救いなのかもしれません。



呉は海軍の街

呉市は、帝国海軍が編成されるタイミングで鎮守府に指定されたことで発展を始めます。鎮守府とはいわゆる軍港ですが、その一機能として兵器工廠が作られ、133隻の軍艦が建造されたそうです。また、特攻兵器である人間魚雷回天の開発も行われています。

ところで、「肉じゃが」は日露戦争で聯合艦隊司令長官を務めた東郷平八郎が、イギリス留学時代に好物だったビーフシチューを海軍で再現させようとして生まれたものだそうです。彼は呉鎮守府で参謀長を務めたのち、10年後に舞鶴鎮守府の司令長官を務めています。

そんなわけで、舞鶴市と呉市が「肉じゃが発祥の地」としてまちおこしに取り組んでいるとか。面白いですね。

シーサイドカフェBEACON

帰りの飛行機の都合で後ろ髪をひかれつつミュージアムを後にし、ランチをミュージアムそばのカフェBEACONでとりました。肉じゃがではなく「士官カレー」なるものを食べましたが、柔らかい牛タンが入っていてとても美味しかった。士官だとこんなに美味しいカレーが食べられたのだろうかと一瞬思いましたが、物資が乏しい中では無理そうですね。

海上自衛隊呉史料館

ミュージアムから道路一本隔てたところには、海上自衛隊呉史料館があり、潜水艦を中心とした展示がされているそうです。潜水艦の愛称?であるてつのくじらと別名がついています。時間がなく外から眺めただけですが。

写真左下に見える砲門やスクリューは、戦艦陸奥のものだそうです。大和型に次ぐ大型戦艦でしたが、昭和18年に広島湾柱島停留中に原因不明の爆発を起こして沈没しています。

江田島には、戦前の海軍兵学校を引き継いだ、海上自衛隊幹部候補生学校があります。時間があれば行ってみたかった場所です。

おわりに

小学生の頃に、大和は呉工廠で建造されたことを知り、以来ようやく見に来ることができました。大和は、環境の変化に対応しきれない旧態依然の組織が産んだあだ花のような兵器であり、その陰で無念の思いで亡くなった方々が、いまの日本の礎となってくれたことをあらためて意識したいと思いました。

特攻に向かう艦内では、多くの士官や乗組員が作戦に疑問を持ち、よくない雰囲気となっていたそうですが、白渕磐大尉が次の演説をして乗組員の心をひとつにしたそうです。

進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ
日本は進歩ということを軽んじすぎた
私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた
敗れて目ざめる、それ以外にどうして日本が救われるか
今目覚めずしていつ救われるか 俺達はその先導になるのだ
日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか

※ 吉田満著「戦艦大和の最後」より引用

我々は、この言葉にふさわしい行動をとってきたのか、戦後70年を期に振り返ってみる必要があるのかもしれません。

 

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