溺れても泳ぐ人、小船の上から助けようとする人、大型客船から指図する人

父からの手紙,起業・経営

新事業を立ち上げや、ベンチャーの事業拡大と言った環境に飛び込むと、たいていはスキルが足りなかったり、組織的に動く仕組みが無かったりで、海で溺れた状態だよな、とよく思っていました。

最近の出来事を見るにつけて、その時考えていたことを思い出したので、書いてみます。

溺れても泳ぐ人

ベンチャー企業にいた時、組織の拡大を仕掛けて混乱が起きるたびに「いかに溺れずに泳ぐか」と、役員同士で話をしていました。というか、社長が「泳ぎを学んでいる時間はありません。飛び込んでから覚えてください。」的なことを平然と口にするので、まあみんな溺れながら泳いでいたわけです(笑)。

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まあ、初期のベンチャーにやってくる人は、たいていが「とりあえず飛び込んで泳ぎを覚える」人たちだと言っていいでしょう。そうでない人は、本当に溺れて会社に来なくなってしまうので。

大企業で新規事業をやったときも、実際のビジネス経験がないところでチャレンジしたので、相当溺れながらなんとか泳ぎ切りました。

どちらかと言うと、どちらも「溺れ死なずに済んだ」の方が正確だと思っています。新しいことに挑戦すれば「溺れて死んじゃう」ほうが多いので、死なずに済んだ私は幸運だったといえるでしょう。

念のためですが、溺れて死んじゃうとは、

  • 個人レベル: 辛くなって仕事をやめる(病気、退職・転職)
  • 事業レベル: やろうとした製品・サービスが完成せずに頓挫する
  • 会社レベル: 倒産する

といったところでしょうか。

小舟の上から助けようとする人

そんなふうに目標を持ってがんばっていると、「なんか手伝えることはないですかー」と近寄ってきてくれる人がいます。飛び込むのは不安だけど、海には出てこれる人ですね。

事業の立ち上げ期が軌道に乗りはじめると、溺れるのは嫌だけど海には出たい人たちが集まってくれます。こんな人たちは、自分が乗れる程度の小さな小舟に乗って、よたよた泳ぎながら「◯◯をくれー」と叫んでいる人達に必要なものを渡してくれます。

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運良く頑丈な船が調達できると(VCからの投資とか)、泳いでいる人を引き上げて休ませてあげることもできるので、トータルでは早く前に進めるようになります。

一方、小舟に乗っている人の一部は、手を差し伸べた瞬間に海に引きずり込まれて、泳ぎを覚えるはめになることもよくあります(笑)。

大型客船に乗る人

溺れながら泳ぐなんて無理だし、そもそも小舟に乗って海に行くこと自体ありえない、という人もいます。そんな人も海には興味があるので、大型客船に乗って海に出てきます。彼らは、偶然遠くに、溺れながら泳いでいる人やその周りの小舟を見つけることがあります。

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たまーに、見るに見かねて、客船から小舟を下ろして近づいてくれる人もいます。仕事で言えば大企業からベンチャー企業への発注みたいなものです。たいていは好奇心や親切心です。あるいは、仕事上の理由や、倫理的な義務感を感じてのこともあるでしょう。

大型客船に乗れるような人なので、便利な道具を持っていることも多いです。でも泳げないので、溺れている人に便利な道具を渡すときも恐る恐るです。小舟に接舷して渡すことのほうが多いでしょう。

そんな人は、上手く渡せた時もそうでない時も、「自分はベストを尽くした」と考えるようです。だって、怖い海に出たんですから、それだけで評価されたいじゃあないですか。

嵐になると・・・

さて、海は定期的に荒れます。ずーっと順風満帆なベンチャーとか、新規事業とかはありません(よね?)。荒れると、溺れている人はさらに溺れます。小舟も波に翻弄されます。

偶然大型客船が通りかかったとしましょう。しかも、満員で荷物も満載。彼らは、乗客の命に加えて、その豪華な資産や贅沢な食料を守らないとならないので、限られた支援しかできません。

もしかすると小舟の一部は、大型客船に救助されるかもしれません。でも、助けたいけど全員は無理だし、溺れている人を助けられる小舟を下ろすこともできない。ほかにできることは、船の上から嵐に翻弄される人たちの無事を祈るだけです。

そんなとき、嵐に翻弄される人たちに対して「なんで嵐になるのがわかっているのに、そんな小舟で海に出るんだ! 」とか、小舟に乗っている人たちに向かって「どうして君たちは船に乗っていながら、溺れている人を助け出せないのか!」と叫び始める人たちが出てきます。

目の前で人が溺れ死んでしまうという状況にあって、そんな人は不安な気持ちを抑えられず、なにか行動しなければ、と誰かに不安をぶつけたくなるからでしょう。

あるいは、そうすることで、目の前の現実に行動しなかったことへの免罪符が得られると思っているのかもしれません。。。

自己責任と周囲ができること

さて、溺れながら泳ぐ人や小舟で助けようとする人は、嵐が来ると危険なので、その前に陸地に到達しないといけないことは十分承知しているわけです。

その上での結果がどうあれ「自己責任」と言われますが、その選択をした人にとっては、自分で考えて結論を出しているのですから、今さら感がある言葉です。もしかすると、自分で物事を決めてない人のほうが「自己責任」と言いたくなるのかもしれません。

そんな自己責任を全うする人に対して周囲でできることは、

  • 自分で選択をした人への敬意をはらうこと
  • できることがあれば、手を差し伸べること

の2つしかないのではないかと思います。

静かに見守ることも、敬意を払わないとできないことだと考えます。

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そう考えると、やってはいけないこととは、

  • 敬意を払わず見て見ぬふりをすること
  • 手を差し伸べようとしている人の邪魔をすること

になりましょう。

評論は、選択の是非を評価しようとするものなので、見て見ぬふり行動のすり替えに見えます。現在進行形の行動に対する評論は、敬意を感じないからです。敬意を払っているなら、結論が出るまで待てるはずです。もちろん、のちに他の人が同じ過ちを犯さないように、後日の分析や対策が必要になることはいうまでもありませんが、これは評論ではありませんね。

また、泳いでいる人や手を差し伸べようとする人に対して、自分は安全な場所にいながらあれこれ指図することも邪魔の一つになるのではないでしょうか。なぜなら、行動している人たちはぎりぎりの状態で決断を繰り返しており、その決断を鈍らせる情報や意見は、行動を遅らせる以外の効果が無いからです。行動を加速させるためには、同じ船に乗り込んで手足の一部になるしかないのです。

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さて、あなたは、溺れても泳ぐ人でしょうか、小舟で助けに行く人でしょうか、大型客船から祈る人でしょうか、それとも安全な場所から指図する人でしょうか?

状況依存の話ではありますが、私は大型客船に乗るのは性に合わなかったようです。溺れながら泳ぐ人を応援し、小舟で助けに行く人でありたいです。