銀婚式を迎えました

日常生活

われわれ夫婦は、1994年の11月23日に、大森めぐみ教会にて結婚式を挙げました。

それから25年が経ちまして、銀婚式を迎えました。

大学テニス部の同期生には、口下手で頑固な性格だった私は、結婚できないのではないかと心配されていましたが、30歳目前でなんとかなりました。

妻と出会ったのは会社のテニス部でした。短大卒の妻は修士卒の私から見ると、会社的には4年先輩に当たりました(浪人した分、学年は私がひとつ上)

まあ4年違えば接点も少なくて、あまり話す機会もなく妻は転職していったのでした。しかし週末のテニスコートにはなぜかいて、そのうち一緒に出かけるようになりました。

笑顔が良くて、他人を妬んだり羨んだりしないし、友達を大事にするので、これなら幸せに過ごせるかと思い結婚することにしました。

背伸びして生きていたのを応援してくれるのと、あと「いつか会社やめたくなるかもなぁ」と漠然と感じていたので、それを許してくれるかも、というのもありました。

結婚2年で長男が生まれ、その半年後には研究留学でアメリカ・シリコンバレーに行き、1年過ごしました。タイトル画像は、その時のものです。

夫婦揃って英語がいまいちだったので、半年は慎重に暮らしていましたが、慣れたあとはラスベガス、ニューヨーク、ヨセミテ、サンディエゴなど、あちこちでかけました。

帰国して2年ほどで事業部に社内転職し、8時前に家を出て25時過ぎに帰宅するようになり、ほとんど家庭を顧みない生活になりました。次男が生まれたばかりだったので、妻は大変だったと思います。

40歳を前に、どうしてもベンチャー企業で働きたくなり、転職の決断をします。

当時よく聞かれたのは「奥さんは反対されなかったんですか?」でしたが、「働くのはあなただからね」とあっさりしたものでした。結婚当時の予感が実現してしまいました。

ベンチャーらしく、またも朝から晩まで働きました。さらに中国で子会社を立ち上げることになり、家庭を顧みないどころか、年の半分は日本にいない生活となりました。長男が小学生から中学生、次男が幼稚園から小学生、という時期でした。

それでも家を建てることして、不在の私の代わりに工務店の折衝をがんばってくれました。新規の分譲地でしたがご近所に恵まれて、子どもたちもお互いに行き来して遊び、親同士も家飲みするような、昔の長屋のようなとてもいい環境になりました。

そのベンチャー企業もやめることになり、半年は働かない宣言をして、私は中国西部や東南アジアを放浪していました。

半年の約束を守りましたが、就職せずに起業することにしました。心配だったと思いますが、家にいる時間が増えたのは良かったかな。昼ごはんはよく作っていました。

そのあと仕事はそこそこ立ち上がり、仕事以外の活動で夜や週末の会合も増えていきました。説明するのが面倒だったので、何をしているかはわからないながらも、遊び歩いて楽しそうにしてるなぁと思われていました。

そのころALSを発症しました。

なんかおかしいという時期を経て、仕事だけでなく日常生活にも支障が出てきた頃に、告知を受けました。

大手町のクライアント先に出向くときは、妻に付き添ってもらうようになりました。最初は電車でしたが、すぐに車椅子が必要になり、車での送迎に切り替えました。

妻はその頃、医療事務のパートをしていましたが、やめてもらうことになりました。子育てもらくになり、せっかく勉強して資格とったのに、残念なことでした。

私の仕事が終了し、家にずっといるようになりました。手すりを伝って家の中は移動できましたが、トイレが自分でできなくなり(チャックが下ろせない)、そのうち椅子から立ち上がれなくなり、ベッドからも立ち上がれなくなり、腕が上がらなくなり食事もできなくなりました。あらゆる日常生活に妻の介助が必要になってしまいました。

気管切開手術の後は、もっと大変になりました。

なかなか他人介護の比率を引き上げられず、どうしても妻の手を借りないといけない時間が長いです。

今年は、これまでの活動が実を結ぶような一年でしたが、妻の献身によるところが大きいです。

つぎは25年後の金婚式です。お互い80歳目前ですが、今や平均寿命前です。私は、70歳ごろに治って社会復帰する予定で生きているので、その先に本来の夫婦の時間を持てればいいなと思っています。

 

 

 

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Posted by gen